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9/17(月)  気持ちとか感情っていうのは、それに対して全部になっちゃうと現実から乖離されてしまうし、かといって無理に抑圧したり否定してりすると神経症になったりひどく味気ない生活になったりしてしまう。前者に慣れた人は節操を持って現実とのかねあいを考えなければいけないし、後者に慣れた人は無理にそれに対して意識的態度を持って把握しようとつとめないとそれを感じることは難しい。ただ言えることはどちら側に偏ってしまうのは良くなくて、でもちょうど中間なんてものもなくて。気持ちは気持ちなのに現実は現実で、結局大切なのはバランスなんていう、そんな処世の話にすぎないんだろうか。バランス、バランス、バランス、バランス…。それが世の中ってもんでしょうか。感情を素直な気持ちとして感じ取れて、それを現実の中で意味づけられる。畢竟そんなんが、かっこいいのかも。
9/16(日)  ひとはイメージによって自らを形作る生き物であって、そのイメージは往々にして集団的な役割によって収斂されるものだと最近思う。それは集団的に担うべき役割の割合を無意識に把握し、自らに強制的に役柄を配役する機能があるという意味。それを意識しないまま生き続けていると、無意識に自らのイメージが固定化されてしまって、例えば「変わろう」といくら意識的態度を改めたところで変わるはずもない。自らに対する先入観を排除すること、実存哲学的に言えば、事実性を把握し己の責任で物事を選択すること、がやっぱりものすごく大切っぽい。でもはっきり言ってそんなのは悟りを開いた人でもないと無理な話で、そんなんよりも自動的な無意識のイメージを意識によって強制的に作り替える方が早そう。無理に理想的なイメージ(岡野憲一郎が言うところの「理想自己」)を作り上げても現実自己との乖離が激しくてすぐに鬱になる(「卑下された自己」と同一化してしまう)わけだから、バランスが重要だろうけど。
9/12(水)  ひさしぶりに歴史感覚を感じた。そして、現実感覚のない人が多いことも知った。自分には関係がないから。海外なら関係ないでしょ。そんな言葉が平気で言えるのは驚くべきことだけど、それは限界状況を充分に認識できていないからで、それは普段の生活も同じことだったりして、認識力のなさに不安を感じながら、何が必要なのかを考える必要性を感じる。
9/11(火)  空間に安堵をもたらす風景を見た。始まりへの姿なのか終わりへの姿なのかは分からない。でも、確かにそれが蓋をしていて、すっと光が広がる役割を果たしていることだけは、感じることが出来るはず。空に広がる美しい絶望に優しく蓋をする金色の影を見て、良いものを見た、見れた、という気になれた。
9/10(月)  名物に旨い物なし、とはよく言ったもの。良いものは早くなくなるのだろうか。洗練されている分だけ、それへの可能性もまた静かに消える。始まりを狙って、新たな生きる目的ができた!
9/9(日) 河合隼雄  河合隼雄が 『昔話の深層』 で述べることには、アニマは高いものも低いものも混入されてくるため関連を持つことが難しく、そのためにはトリックスターのはたらきををある程度借りるより仕方がない、という。「仕方がない」と表現しているのは、それが危険性に満ちながら、人生には影を必要としていることへの感傷的な諦念があるからだろうか。そんな世界観が好きで、何も変わらない。
9/8(土)

 first impression を説明するって難しい。それをきちんと説明するには、充分な意識的態度が必要とされる。説明できないとき、いい加減に見過ごしてきた罪を思い知らされる。
それと、ある対象に対して執着することはその対象に対する正常な(対等な)態度が維持できない、という趣旨の文章を読んだことがあるんだけど、そんなことを思い出した。

「生きた形態は、塑像として見えるためには深い影を必要とする。影がなくては、それは平板な幻影にすぎない」
Carl Gustav Jung (1875〜1961)

Carl Gustav Jung スイスの心理学者、Car Gustav Jung (カール・グスタフ・ユング)はチューリッヒ大学で精神医学をおさめ、のちに精神分裂病研究で著名になる Eugen Bleuler (オイゲン・ブロイラー)のスタッフになってその指導をうけた。Sigmund Freud (ジークムント・フロイト)の考えに共鳴し、国際精神分析学会の創設に貢献してその初代会長となるが、1913 年に学説の相違が表面化して決別。自ら分析心理学(ユング心理学とも呼ばれる)を作り上げ、思想面で文学や芸術に大きな影響を与える。日本には河合隼雄によって広く紹介された。
Jung は自らの心理学の中で、ある人が否定したり拒否したりして受け容れがたいとする傾向のすべてをその人の「影」と名付けている。ここで述べられている影はその意味における比喩として受けとるべきもので、一面的な態度や意識を戒めるだけでなく、一般的に否定的なものにその意義を見いだしている。自分の中にある「影」を、拒絶するでもなく迎合するでもない態度、を考えさせられる。

9/7(金) 「死ぬのは人ではない、彼らの中で世界が死ぬのだ」
Yevgeny Aleksandrovich Yevtushenko (1933〜)

Yevgeny Aleksandrovich Yevtushenko ロシアの詩人、Yevgeny Aleksandrovich Yevtushenko (エヴゲーニー・アレクサンドロヴィチ・エフトゥシェンコ)はシベリアのイルクーツク州に生まれ、ゴーリキー記念文芸大学で学ぶ。52年に処女詩集『未来の偵察兵』を発表、翌年の Stalin (スターリン、「鋼鉄の人」の意。Iosif Vissarionovich Dzhugashvili (ヨシフ・ビッサリオノビチ・ジュガシビリ)が本名)の葬儀での流血の惨事に衝撃を受け、56年の Stalin 批判の後、雪どけで輩出した若手詩人の旗手として世に出て、知的精神の自由をテーマに〈雪どけ〉派の詩人として世界的に有名となった。近年は映画俳優や監督をしたりもしているらしい。
心理学関係の書籍に引用されていた言葉だと思って本を探していたら、William R. Clark (ウィリアム・クラーク、生物学者)の 『死はなぜ進化したか』 に引用されていたものだった。古い書き物ノートで書き写したのを偶然見つけて。おそらく唯識的な世界観を語ったものだと思う。
9/6(木)  それぞれが皆、自分の中でいろんな言い訳をして生きているわけだけど、言い訳が言い訳で通る状態や境遇を認識している、あるいはなんとなく感じているってことは、その状態や境遇に甘んじてることと同義かもしれない。
9/5(水)  餃子って宇都宮が有名って聞いたんだけど、それホント?
9/4(火)  Hewlett-Packard 社が COMPAQ 社を買収だって。ビックリ。奇しくも両社のCEOは共に46歳。

「あなたが先へ進めず妨げられているとき、狂っているのはあなた自身の態度である」
Meister Johannes Eckhart (1260〜1327)

Johannes Eckhart Johannes Eckhart (ヨハネス・エックハルト)は中世ドイツの神秘主義思想家、キリスト教神学者。Meister Eckhart の尊称でも知られる。ちなみに Meister (マイスター)は master と同源で、「名人」「大家」「巨匠」、「親方」「師匠」などを意味するドイツ語。ドミニコ会に属し、同じドミニコ会の先駆者 Albertus Magnus (アルベルトゥス・マグヌス)に続くスコラ学者でもある。神は肯定的述語で言い表しえないとする新プラトン主義的な否定神学を背景に、存在を超える無と神とを同一視したという。ドイツ神秘主義において重要人物であるらしい。総じて彼の神秘主義は、キリストとの愛の合一を説く情感的なものではなく、知的、思弁的な色彩が強いという。Eckhart の精神は直弟子 Johannes Tauler (ヨハネス・タウラー)および Henricus Suso (ヘンリクス・ズーゾー、Seuse (ゾイゼ)とも)を通して受けつがれ、ドイツ神秘主義の系譜をなして生きつづけたようだ。また現代の学者たちは、プロテスタント思想や実存主義の展開にも Eckhart の影響の痕跡をみいだしているらしい。
Rollo May さて、この箴言だが、実存思想を導入したアメリカの心理学者 Rollo May (ロロ・メイ、1909〜1994)が指摘するように、「過度の自己断罪は、かえって内に隠れた尊大さを取り繕う」ので、それを意識した上で内省なり現状把握なりをしなくてはならない。なぜなら適切な批判を超えることは、それ以上の能力を無意識に自分に期待するためであり、不釣り合いな能力を求めることは現実のしっぺ返しを喰らうことになる。過度の自己否定も同じく「隠れた尊大さを取り繕う」ものであり、またその脆弱な自我による運命論的な諦念は不安と絶望しか生み出さない。
9/3(月) 「自分自身の内的自我を支配する力のない者は、すべてみな、しかたなく隣人の意志を支配しようとする」
Johann Wolfgang von Goethe (1749〜1832)

Johann Wolfgang von Goethe (ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ)はドイツの詩人・劇作家・小説家・自然科学者・美術研究家・またワイマール公国の要職にあった政治家。Goethe の詩には、自Johann Wolfgang von Goethe然や歴史や社会と人間精神との関わりへの革新的な観察眼があらわれており、その戯曲や小説には、人間のもつ個性へのゆるぎない信念がうつしだされているらしい。そして、こうした Goethe の作品は、評論や書簡もふくめて、同時代の作家たちや、彼が主導的な役割をつとめた文学運動にきわめて大きな影響をあたえたという。
正直 Goethe の恋愛詩などはどうも性に合わないんだけど、諸所に引用されている彼の著述を読むとその思想や思索の深遠さに圧倒される。
この箴言について言えば、例えば強制的な態度を他人に対してとったり、自分に対して「自分は〜なのだから」といった役割を強要することがあったりしたとき、この箴言を思い出すといいかもしれない。
9/2(日) Paul Tillich「絶望や不安は、人が現実の中で、それに立ち向かうまで決して克服されない」
Paul Tillich (1886〜1965)

ドイツ生まれのアメリカの代表的宗教哲学者 Paul Tillich (パウル・ティリッヒ)は、社会学研究の成果を神学研究にいち早くとりいれた哲学者のひとりで、現代文化と共存するキリスト教神学の構築をこころみ、実存主義的な神学を唱えた。
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